福岡忍者の歴史
福岡藩祖黒田官兵衛と初代藩主黒田長政は忍者との関係が取り沙汰されることの多い武将ですが、福岡の忍者は今まで学術的な研究がされていませんでした。
現在、福岡黒田忍者隊/福岡忍者普及協会(株式会社ワーサル)と忍者学の専門家達と共同で福岡忍者の歴史調査を行っています。
福岡の忍者に関して情報をお持ちの方は、是非ご連絡をお願いします。
朝鮮王朝実録より
1500年代に書かれた「朝鮮王朝実録」には、華加大國(博多)に時老未(しのび)がいたことが記されています。
黒田藩の忍者恵比須伝説
慶長四年(一五九九年)現在の佐賀市唐人町に建立されたとされる恵比須様は、忍者恵比須の伝説がある。黒田藩は隣藩で勢力を拡大している佐賀鍋島藩の様子を探るため、スパイとして恵比須さんを送り込んだという言い伝えが残っています。
毛屋武久(信長の野望)より
毛屋武久とは、黒田長政の家臣の中から24人の精鋭を選出した「黒田二十四騎」の一人。甲賀忍者で有名な近江国出身で、関ケ原の戦いでは東軍(徳川家康)として参加し、敵軍の物見(偵察)を担った。
「信長の野望」では、上記の事から忍術の心得がある忍者だったとされています。
戦国忍者列伝(学研M文庫)より
福岡藩初代藩主の黒田長政公は、渡り忍者である「三田村次郎衛門」と「佐野佐太夫」の2名に、後藤又兵衛基次への暗殺の指令を出していました。
スーパー忍者列伝(PHP文庫)より
福岡藩祖の黒田官兵衛は特に忍者との関係がとり沙汰されることの多い武将です。福岡藩の重臣たちは忍術の心得があったのは確実で、長政公含む両将は、忍者集団を配下に置いていたことも事実であろう。
また黒田氏ゆかりの黒田流忍術も伝えられている。
大谷刑部戦記(歴史群像新書)より
大谷刑部戦記の中で「三田村次郎右衛門は"甲賀"の流れを汲む忍で隠密に長け、策戦工作を得意としている」と紹介されており、敵陣に無臭で多量の"眠り香"を焚いて眠気を誘ったとされる。また「戦国風雲録 三 決戦! 大坂夏の陣 戦国風雲録シリーズ」(歴史群像新書)では黒田家中においても"一刀流"を使って右に出るものはいないとされている。
子連れ狼 冥府魔道(黒田藩面頬衆)
1973年に公開された「子連れ狼 冥府魔道」(東宝)では、藩校修猷館の生みの親である黒田斉隆が率いる「面頬衆」という忍者集団が登場します。
黒田官兵衛新装版(学研M文庫)より
黒田官兵衛が甲賀五十三家の和田惟政と親交があり、甲賀流忍術を会得するため、家臣の栗山善助を望月出雲に二年間預けたとあります。
忍びの者132人データファイルより
「黒田流」は黒田官兵衛孝高(如水)を藩祖とする筑前福岡藩に伝わる。官兵衛は近江国黒田郷の出身ということもあり、甲賀五十三家和田伊賀守惟政と親交があった縁で甲賀流忍術が黒田家の兵法に流入したとされる。
忍びの者132人データファイルより
「栗山備後利安」(若年:善助)は甲賀黒田流忍者とされる。十四歳の時に二十歳の黒田官兵衛に仕え、共に甲賀流忍術を学んだ。官兵衛は天正六年に織田信長に背いた荒木村重を説得に出向いて、村重の居城の土牢に幽閉された。その際栗山は商人に変装して忍び込んでいた。
忍びの者132人データファイルより
「三田村次郎衛門」は黒田流忍者とされる。天正年代に福岡藩藩主の黒田長政に仕えた。黒田官兵衛は甲賀五十三家の和田惟政と親交が深かったので、和田氏が織田信長に滅ぼされた後、その家中の甲賀忍者を多数引き取ったとされる。上記の後藤又兵衛暗殺に関しては「明良洪範(めいりょうこうはん)」にある話という。